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2010年5月29日 (土)

一九七二年の栄養失調  -ある「魂への気づかい」の記録-


 一

 庄司薫? と聞いてもピンと来ない方も多くなってきた昨今ですが、一九六〇年代末に芥川賞を受賞し、一九七〇年代前半、ベストセラー作家として著名でした。しかし、小説としては一九七七年の『ぼくの大好きな青髭』、エッセイ集としては一九七八年の『ぼくが猫語を話せるわけ』を最後に、時折、自著の再版等に際してあとがきが新たに書き加えられる等の例外を除いて、沈黙してしまいます。
 すでに三十年にわたって沈黙を続けていることを思えば、二度と筆をとられることはないと考えねばならないのかも知れませんが、氏には“前科”もあるのでまったく期待できないか、といえばそうでもありません。
 芥川賞受賞作『赤頭巾ちゃん気をつけて』を発表したときが、三十二歳の時。しかし、遡ること十年。二十一歳で東京大学に在学中に「喪失」で中央公論新人賞を受賞、喪失を含む作品集を一冊残しています。この学生作家氏は、しかし、翌年「封印は花やかに」を残して(正確には翌々年「軽やかに開幕」があるが単行本未収録)沈黙期間に入ります。このときは本名で発表したのでしたが、その十年後、庄司くん(薫)というペンネーム(本名の「福田章二」をもじっている)で現れるやたちまちにして大評判となります。『赤頭巾〜』に続いて『白鳥の歌なんか聞こえない』まで二度にわたって映画化された、といえばその人気もおわかりでしょう。

 氏の小説は、学生時代に書かれ、『喪失』としてまとめられたたものを除くと、『赤頭巾』に始まり、『さよなら快傑黒頭巾』『白鳥の歌〜』『〜青髭』の作者と同名の十八歳の青年、庄司薫くんを主人公とした四部作しかありません。他に三冊のエッセイ集があるだけです。
 そのためか、中には軽い少年小説を書いて一時期人気があった作家、程度の紹介で終わっている場合もあります。
 では、氏は本当にそれだけの作家だったのでしょうか。
 そもそも、福田章二氏はいかにして庄司薫氏になったのか。
 いや、その必要があったのか。

 「一九六九年中にさっさと書き上げたら、また総退却しようと思っていた」という、薫くんもの四部作にしてからが、タイトルに赤・黒・白・青を入れ込み、中国の故事に習って東西南北を表し、これをもって主人公・薫の世界を現そう、というのですから、庄司さんは相当な凝り性、というか、(小説)世界を分節化し、構造化する意志が顕著と言っていいでしょう。
 その主人公・薫の設定にしても、二十世紀後半を考える一つの方法として、一九五〇年生まれの男の子を考えていた、というのですから、ここでも方法への意志は一貫しています。
 『赤頭巾ちゃん気をつけて』は一九六九年の春に執筆され、すぐに中央公論に発表されますが、その主人公・薫が十八歳の東大受験生であった(その年の東大受験は大学紛争の煽りで中止され、受験浪人となっていた)のは、一九五〇年生まれのアイツは今、どうしているだろう、と考えてみたら、こんな状況になっているんじゃないか、ということで書かれているのです。(因みに、今年、五十代半ばとなった薫くん、‥‥薫氏はどうしているでしょう? こればっかりは作者の庄司薫氏にお聞きするしかありません)
 さらに言えば、『赤頭巾〜』のあとがきにちらりと書かれているように、主人公・薫は、ぼくは自分の兄の小説の主人公なんじゃないかと思う、なんて白状もしている。単行本には未収録だけれど、「恐竜をつかまえた」という魅力的な短編があり、実は四部作の主人公・薫が登場します。いや、それだけではなく、その兄が登場する。そして、その兄とは作者・庄司薫氏自身に相当すると考えてもよさそうな書き方なのです。
 庄司薫氏の、というより、福田章二氏の方法は、このように一貫して構造的であり、それはいつの場合も自己言及的に構造的であると言って良いようです。庄司氏自身の言葉で言えば、「客体化」する、という作業を常に行っている。
 以上、簡単に振り返っただけでも、自分を、世界を、客体化する方法のひとつとして、小説を書いた作家、そのことに人一倍意識的であった作家として、彼は極めて特異な存在であったと言って、間違いはないでしょう。

 福田章二氏が庄司薫氏に生まれ変わったのは、後に触れるように、実は、大学紛争に端を発する時代状況を砂かぶりで見守る中で、庄司さんの先輩や友人にあたる人々への「魂への気づかい」として再び小説が書かれることになったことの結果である、と言ってよいのですが、同時に、その状況下での自己の振る舞いを検証するための方法、自己客体化のための方法のひとつでもあったと推測して、そう大きく外れてはいないと思うのです。


 二 

 作家・庄司薫が活躍した期間は、一九六九年の春の『赤頭巾』の執筆(中央公論への掲載は五月号、単行本は八月)に始まり、一九七五年の中央公論一月号から二年間にわたる連載を経て、一九七七年七月『青髭』が単行本として発行されるまでの実質九年間ほどと言って、そう間違いではないと僕は考えています。
 ただし、そこには奇妙な断層がある、といって良さそうです。

 四部作のうち、『赤頭巾』に続く『黒頭巾』は一九六九年の八月から十月まで中央公論に連載後、十一月に単行本が発行され、翌一九七〇年一月の中央公論には『白鳥の歌』の連載が始まり、これも六回で完結、さらに翌年の一九七一年二月単行本が発行されます。
 少しずつ、刊行のペースがゆっくりになっているのが分かりますが、それでも、この時期には短編の「恐竜をつかまえた」や「アレクサンダー大王はいいな」の他、数々のエッセイ(長編エッセイの『狼なんか怖くない』を含む)が平行して書かれていることを考え合わせると、決して仕事のペースは鈍っていないと言ってもいいのではないでしょうか。この時期に書かれたエッセイの多くは、のちに『バクの飼主めざして』(一九七三年六月発行)にまとまります。『バク』の場合も、まえがきとあとがきなどいくつかを除くと、ほとんどが一九七一年末までに書かれたものですが、すると、ひとつ特徴的なことが分かります。
 作家としての庄司薫氏の活躍期間はほぼ九年間あったのですが、主要な仕事はほぼ最初の一九六九年春から一九七一年いっぱいの実質三年間で終わっていると言っていいのです。
 一九七二年から、仕事のペースがぐっと落ちる。その年に空白期間があるように見えます。七三年も『バク』の発行や『赤頭巾』を始めとする四部作等の文庫化がありますが、実質的な仕事は大幅に減っていると言えるでしょう。七四年はピアニスト・中村紘子さんとの結婚。七五年の一月からようやく(と言ってもいいでしょう)『青髭』の連載が始まり、二年間連載し、完成するものの、他の三作に比べて極端に長くなり、短く書き直して刊行しています。
 『青髭』刊行の翌一九七八年、最後のエッセイ集『ぼくが猫語を話せるわけ』が刊行されますが、私見によれば、軽いエッセイ集と言うべきで、実は肝心なことは一切語らない、という態度を貫いています。
 これは僕の推測に過ぎませんが、一九七二年以降の庄司氏は結局、『青髭』完成のためだけに現役にとどまった、といえそうです。つまり(少なくとも結果だけを見れば)実質的には、七二年には二度目の総退却をしていた、というのが僕の考えです。
 庄司薫さんは、何故、二度目の総退却をしたのでしょうか。

 加藤典洋さんという文芸批評家がいます。彼の著作に『小説の未来』と言う本があり、二〇〇四年一月に発行されていますが、その出版に併せて行われたある書店での講演会&サイン会に僕は野次馬的に出かけたことがあります(こういうの結構嫌いじゃないんです)。
 既に購入済みだった著書を抱えて書店に向かいながら、車中もずっとその本を読み、時間までには何とか読み終わりそうでした。
 会場に着いてみたら、なんとそこはその書店の中の喫茶店で、店を貸し切りにして会場とし、まさに著者を囲むようにいすが並べられていました。僕は確か、ぎりぎりまでどこかで食事なんかをして余裕をかましていたら、会場には既にたくさんの人。空いているのは著者が座る予定の周りだけでした。
 案内の人に聞かれて、もう半分やけで、著者の真ん前の席に座ったものでした。
 定刻に現れた加藤さんも会場を見ていささかたじろいだ様子でした。実際、僕との距離は一メートルしかない。というか、加藤さんの周りには一メートルほどの空間しかなく、あとはびっしり人が埋まっていたのです。これは相当に話しにくい。
 それでも、何とか話が始まり、その話の内容自体興味深かったのですが、僕が驚いたのは、著者が現れるまでに何とか読み切ろうと思って、手にしていた件の本『小説の未来』の最終章の最後「小説の未来へ」に、庄司薫さんの『赤頭巾ちゃん気をつけて』が参照されていたからでした。僕は、加藤さんが到着するまさにその時に何とか読み終えたのでしたから。
 加藤さんは本の中で、「理想」を希求する人々の心が地下鉄サリン事件以降、どう変化してしまったかについて、吉本ばななの小説を通して語ろうとしていたのでした。最終章のタイトルは「よしもとばななと一九九五年の骨折」となっています。
 詳細は実際に加藤さんの著作を手に取って頂くことにして、吉本さんの長編『アムリタ』についての分析を通して、“超越”へ向かう心が一九九五年(サリンと阪神大震災の年です)を境にして閉ざされてしまった、ことが語られています。そのことが最もよく伝わる作品として、九五年の前に書かれ、しかし、九五年以降に作者自身によって作品の構想が否定されるようなエピソードを付け加える形で文庫化されたこの作品が取り上げられているのです。
 また、同様に一九九五年の体験に深く動かされた作家として村上春樹さんがいます。その村上さんが一九九六年に発表した『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』で、オウム事件につきまとう「物語の稚拙さ」にふれ、「『青春』とか『純愛』とか『正義』といったものごとがかつて機能したのと同じレベル」の力の作用がある、それを単に『稚拙な物語』だからと軽く見たら、間違う、むしろそれは、『稚拙』だからこそ、「人の心をひきつけたのではあるまいか」と発言している、というのです。
 吉本さんに初めにあって、後に閉ざされたのものも、この『稚拙な物語』に似た何かへの希求であったのではないか、というのが加藤さんの見立てです。
 そして、最後に引用されるのが、加藤さん曰く、一九七二年の骨折、の体験者である庄司薫、と言うことになります。

 さて、批評家・加藤典洋さんによる庄司薫さんの紹介は如何に為されているのか。簡単にまとめると、加藤さんは、庄司薫の略歴を紹介し、『ぼくの大好きな青髭』以降、小説の発表がないことに触れて、「なぜ小説制作はとまったのか、僕はひそかに、そこに、連合赤軍事件による一九七二年の骨折ともいうべきものを、想定しています。」と記しています。
 『赤頭巾ちゃん気をつけて』のストーリーを紹介し、評価した後、村上春樹さんとの関連につてこう述べます。「村上春樹さんの第一作『風の歌を聴け』の中に語り手が私淑する作家としてデレク・ハートフィールドという架空のアメリカの小説家が出てきます。そのモデルは、この庄司さんなのではないかという説がありますが、あながち荒唐無稽とは言えない。そう思わせるほど、サリンジャー、村上春樹に通じる、明るさと暗さの明度差をもつ作風を湛えています。」
(付け加えるならば、先日読んだ三浦雅士さんの『村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ』という本には、『ライ麦畑でつかまえて』の主人公、ホールデン・コールフィールドとの名前の類似についても触れられていましたっけ。)

 そして、加藤さんは『喪失』から『赤頭巾』に至る十年間の沈黙について、「いわゆる三島由紀夫ばりの早熟な文学的才能として出発した後、壁にぶつかり、十余年の沈黙の中で自分のうちなる超越的なものへの希求、あの羊のロマン主義とでもいうべきものを扼殺することで、別の小説家として誕生しているのです。」と述べています。
 つまり、言葉は悪いですが、庄司薫さんは二度骨折している、とも言いうる。『喪失』後に一度、一九七二年の時にもう一度。その時点で赤頭巾四部作のうち、三作までは既に書かれており、最後の『青髭』だけが残っていました。そして、「さっさと書いてまた退却」するはずだった四部作の最終作は、結局一九七五年になってやっと連載が始まり、二年間続いて、刊行されたのは一九七七年になります。
 庄司さん自身が実は、その二度目の骨折‥‥ご自分では「栄養失調」と言われていますが‥‥にある意味、言及されています。エッセイ集『バクの飼主めざして』の序文。いくつかに分けられ見出しが振られています。「一般的描写」「食べること」「連合赤軍」「持続の問題」「打明け話」。
 このエッセイ集には、文末にそれぞれ発表年月日が付されているのですが、それを見ると、収録のエッセイのほとんどすべてが、この二度目の骨折(栄養失調)の前に書かれていることがわかります。そして例外がこの序文(「バクの飼主めざして」)とあとがき(「バクの赤ちゃんには縞がある」)ほか数編になります。
 ここで、一九六九年から一九七三年までの経過を、『バク』講談社文庫版(絶版)の自筆年譜等を元に、推定される作品の執筆時期を書き込みながら振り返ってみると、

 一九六九年春、赤頭巾執筆(同五月中央公論発表)
 一九六九年夏から秋、黒頭巾執筆(同八・九・十月中央公論発表)
 一九六九年夏から秋(?)、恐竜と大王執筆(文学界九月と新潮十二月にそれぞれ発表)
 一九六九年冬から一九七〇年初夏、白鳥執筆(一九七〇年一月〜六月中央公論連載)
 一九七〇年春から一九七一年春、狼執筆(一九七〇年四月から一年間婦人公論連載)

となり、一九七一年十二月に『狼』が刊行されるまで、仕事のペースは徐々にゆっくりとなりつつもさほど落ちてはいないように見えます。
 空白の一九七二年を挟んで一九七三年には、六月にエッセイ集『バクの飼主めざして』が刊行されますが、そのエッセイの初出を確認していくと、その多くが一九七一年末までに発表されたものであることがわかります。一九七二年二月の連合赤軍事件以降に発表されたものを拾い出すと、
 「バクの飼主めざして」一九七二年三月(朝日新聞)
 「読者とぼくの静かな関係 B読者からの手紙について」一九七三年五月(書下ろし)
 「たった一人の中の大きな世界」一九七二年九月(新編人生の本2「師と友」序文)
の三つだけです。あとがき(「バクの赤ちゃんには縞がある」)を加えても四つのみ。そのうちの「バクの飼主めざして」という、序文としてエッセイ集の巻頭に置かれ、本の題名ともなったエッセイでは、連合赤軍について直接語られ、「たった一人の〜」では、バリケードの青春について触れられています。 (なお、「読者とぼくの〜」は読者から届く手紙や葉書についてのエッセイで、連合赤軍事件とは直接関係ありません。)

 『バクの飼主めざして』は、全三十四本の短いエッセイを収録した本ですが、そのほとんどは一九七一年末までに書かれており、一九七二年二月の連合赤軍事件以降に書かれ公表されたエッセイ三本のうち二本には連合赤軍事件の影が落ちていることがわかります。いや、正確には残る一本の「読者とぼくの〜」は、七三年になって本をまとめる時に書き下ろされたエッセイであることを考えると、実は、連合赤軍事件後、この事件の影を帯びていないエッセイは書かれていない(少なくとも『バク』に収録に至った文章としては公表されなかった)ことになります。

 庄司さんは『バク』の序文「バクの飼主めざして」で、自分の生活の一般的描写をされた後、「この簡潔な生活における最大の難点は食べること」だと話を続け、「昨年の三月、ぼくは栄養失調でひっくり返ってもうダメかと思った。」「ところでぼくの栄養失調の原因は、小説を書くという『夢を食べる』作業のせいばかりでなく、直接的には連合赤軍のせいだったのかもしれない。」とそのインパクトの強さを語っています。連合赤軍のメンバーの年齢が、ほぼ、庄司さんの小説の主人公である薫の年齢に重なる事実。そして「バクとは、悪い夢を食べることによって人々の安らかな眠りを守る動物と伝えられるわけだけれど、彼らはまさに、少なくとも主観的には『社会のために身を犠牲にして』バクになり、同時代を生きるぼくたちの悪夢をひたすら食べつづけていたのではあるまいか。そしてその結果、消化不良を起し栄養失調に陥った。」と続けています。
 そして、事件発生からずっとテレビの前で釘付けになり、初めは風邪かとおもったものの「足許がフラフラして、立っていると目まいがしてくるのだ。」という状況になった庄司さんがいたのでした。友人の医者に診てもらい、栄養失調と診断されて呆然とした庄司さんは、友人が帰った後でようやく、「ぼくは、彼に答えるべきであったいくつかのカッコいい台詞を思いついたけれど、すでに遅かった。毎日何を食べてるんだ! と詰問された時、ぼくはたとえば超然とした優雅さで、余はバクの如く夢を食べておるのだ、汝らの平安を守るために、汝らの悪しき夢を代わって食べておるのだ、などと答えれば貫禄十分だった」と思いつくのですが、実際には「掛値なしの現実問題として、冗談ではなく深く深く反省せざるを得なかった。」と記しています。

 一九七二年の庄司さんの空白。その理由がどこにあるのか。本当のところはわかりません。
 ご本人も明確に発言されたことは、一度もないと思います(たぶん) 。
 ですが、そこには、はっきりとは語られなかった何事かがある、という手触りだけはありありと感じられます。何か、塊が、取り残されたままになっているのです。
 そのことは、やはり『バク』におさめられた「十年ぶりに小説を書くこと」(初出、一九六九年八月)に、次のような記載があることに照らし合わせるとよりくっきりと浮かび上がるように思います。
 「ところでぼくは、十一年前に『喪失』という小説を書いて中央公論新人賞を受け、その時の『受賞の言葉』や授賞式のあいさつで『逃げだしたい』などと言って、しかもほんとうにさっさと小説をやめて逃げだしたという『前科』を持っている。(中略)でも今のぼくはこの、ぼくにも読者ができた、という経験に味をシメたせいか、率直に言って今度は粘れるだけ粘ってみようかと考えていて、ここから当然さまざまな初体験の問題にぶつかり、考えこむという毎日が続くことになる。」
 このエッセイが書かれてから二年半後、「粘れるだけ粘ってみよう」と考えていた庄司さんを立ち止まらせる事態が起きていた、とおそらくは考えて良いのです。

 三

 批評家の加藤典洋さんが“骨折”と呼び、庄司薫さんご自身は“栄養失調”と呼んだ種類の体験を、庄司薫さんは二度体験している、と言ってもいいのではないか、と述べました。その二度目の体験---栄養失調---の時期が一九七二年二月の連合赤軍事件の時であり、作家・庄司薫は、実質的にはそれ以降、四部作の最終話『青髭』のためだけに作家として公にとどまったが、実質的には既に二度目の総退却をしていた、というのが僕の考えでした。

 その、一度目の骨折とその後の総退却に関しての記録は、実は当の庄司薫さん自身によって残されています。言うまでもなく、長編エッセイ『狼なんか怖くない』がそれです。これはまた見事なエッセイで、その内容をかいつまんで‥‥などということがイヤになってしまうような作品なのですが(つまり、自己表現ないし自己省察について、人一倍自覚的な人間が、近過去の自分について語る、と言う場合の自己言及の仕方ないし作法について真に示唆的である、と言う意味においても)、もう極端にかいつまんで一言で述べれば(詳しくはちゃんと庄司氏の本をお読み下さい)、

 人が成長する過程で、「純粋」「誠実」といった理想をめざす時、その目標に到達するためには現実的な「力」を獲得する必要があり、必ず他者との比較競争関係に入らざるを得ないが、その場合少なくとも結果として必ず勝者と敗者が生まれ、その勝敗の結果として勝者はその最も人間らしい何かを「喪失」し、そもそも理想をめざす要件そのものを「喪失」してしまう。それにもかかわらず、人が人らしく生きていく要件は何らかの理想をめざすことにある。

という恐るべき自己撞着。この自己撞着こそが“狼”でした。
 庄司氏の一度目の“骨折”の原因となった恐るべき敵が、この狼であり、その狼を“怖くない”と言いうるために必要とした歳月が、赤頭巾で復活するまでの十年間であったと考えることもできるでしょう。
 その十年間に庄司さんが獲得した方法のひとつは、短期決戦による玉砕を避け、長期戦ないし持久戦に勝ち抜く方法。あるいは、短期的な優勝劣敗関係を、長期的に補償して何倍にも返す方法(“若々しさのまっただ中で犬死にしないための方法序説”)でした。
 その初めての試みである『赤頭巾ちゃん気をつけて』で庄司さんが述べたことは、結局言葉にするとひどく単純なこと、その困難な持久戦を戦い抜くためには、他者への愛、それも、力に支えられた他者への愛、こそが必要だ、と言うものでした。

 その、「力に支えられた他者への愛」を庄司さんは,薫というひとりの“やさしい若者”の言葉と行動で表現しました。実は、赤頭巾で表現されたこの“やさしさ”は、従来の言葉の意味を革新しており、それ以降一九七〇年代を“やさしさ”という価値で語れるほどに当時の人々に受け入れられていくことになります(従来は、やさしさ、には優男などの例でわかるようなどこか弱々しいイメージが、はっきり言ってマイナスのイメージが付随していました)。しかし、この「革新」の底の意味は実は明確には受け止められなかったのではないかと思います。
 庄司さんが表現した“やさしい若者”、“やさしさ”は圧倒的に受け入れられますが、その後に出てきた多くの表現では、その肝心な部分、「力に支えられた」部分が欠落していたのです。結局、単に優しいだけの若者、に収束していくことが圧倒的に多かったのです。これを、「やさしさ」と「力」を併せ持つことの困難、まさしくある種の理想を抱くときの困難、がここにも顔を見せている、と言ってみてもよいでしょう。おそらく、そのことに誰よりも敏感であったのは当の庄司さん自身であったに違いありません。
 庄司さんの考えの基底にあった、優勝劣敗の勝者がいかに自分の夢を、その力を、失わずに他者に還元していくことが可能か、というモチーフは現実の日常的白兵戦の最中に消えていき、落ち着いた先は、弱者の自己肯定であった、などということがしばしば起きた。いや、それどころではありません。その問題は、早くも一九七二年、劇的な形で、庄司さんの前に現れていた、と言ってもいいのではないでしょうか。「少なくとも主観的には『社会のために身を犠牲にして』バクになり、同時代を生きるぼくたちの悪夢をひたすら食べ続けていた」はずの若者たちが、「いわば魂の栄養失調とでもいうべき状態にいつの間にか追いつめられていき、気づいたときには、『社会のために』という他者肯定を目ざす最初の夢とは全く正反対の、他者否定、社会否定そして人間否定へとのめりこんでいた‥‥。」(「バクの飼主めざして」)

 それが、一九七二年の庄司さんの栄養失調、をもたらしたと考えることができます。庄司さんは、この時期に起きた一連の衝撃的な出来事を、ほとんど「我がこと」として受け止めていたのではないかと考えられるのです。

 四

 「喪失」において、庄司さんが問題にした比較競争関係とそこから導き出される“狼”については先に触れましたが、若き日の庄司さんは、その恐るべき自己撞着のメカニズムを小説という形でえぐり出しはしましたが、問題の提示にとどまり、対応策は提出できず、いわば自分で提示した問題(小説)と差し違えるような形で小説を書くことから退却し、社会的な意味では沈黙期間に入りました。
 一九六九年に、『赤頭巾』で公の場に復帰しますが、その時に始めて庄司薫というペンネーム(匿名性の自由=ゲリラの方法)を採用します。四部作を書いたらさっさとまた退却するはずだった、ということは何度か書きましたが、それもこのゲリラの方法に基づくものでした。ただし、ご存じのとおり、『赤頭巾』が芥川賞を受け、ベストセラーとなることによって、初めは本当に十八歳の少年ではないか、とさえ思われた庄司薫くん、が福田章二氏のペンネームであったことが明らかになり、戦法の変更を余儀なくされてしまうことにもなったのでした。
 ここで今一度、そもそも総退却していた福田章二氏が、庄司薫として再び登場した一番の理由を確認しておきたいと思います。
 庄司さんは『狼なんかこわくない』の中で次のように語っていたのでした。
 「六七年に始まる大学紛争が激化していくにつれ、ぼくは、ぼくの中の、なによりも無力な自分自身に対する苛立ちが、次第次第に耐えがたいまでにたかまるのを感じていたのだった。何故なら、たとえば東大紛争をとっても、そこでゲバられているのがぼくの先生や友人なら、ゲバっているのも友達だという状況がそこにはあった。」
 「ぼくが、その準備不足を感じながら、でもとにかく再び小説を書き出した大きな動機は、かくして、ほかならぬこのような時代的状況を砂かぶりで見ながら、しかし結局は十年間何もできずに手をつかねてきたぼく自身の苛立ちに基づく一種の短絡反応にあったと言えるかもしれないのだ。」
 また、「七〇年代に何が起こるか-長期戦の方法-」(『バクの飼主めざして』収録。初出、一九六九年十二月)では、 「『赤頭巾ちゃん気をつけて』で十年ぶりに筆をとったぼくの前にあったのは、ぼくの友人たち先輩たち、そしてなによりもこのぼく自身のなかにあるこのような魂の荒廃への予感だった」 と記しています。
 そしてここで「このような魂の荒廃」と名指されているものとは、「たとえば、ぼくたちを敵味方に峻別して闘わせることになるさまざまな政治的思想体系(政治的信条といってもイデオロギーといってもかまわない)は、そもそも他ならぬこのぼくたち人間のためにあるのは言うまでもないことだが、混乱と動揺の中では、常にその排他的側面のみが強調されて、いわば境界における党派的戦闘ばかりが激化するような形になってしまう。そしてその結果、目先の戦闘に必要でかつ便利な他者否定の技術のみがとぎすまされ、その思想が本来拠ってたっているはずの『みんなを幸福にするにはどうしたらよいか』といった最も素朴でしかも重要な目的そのものが見失われていく。いや、それどころか、そのような戦闘が繰返されていくうちに、他者肯定はすなわち『敵を愛する』という現実的には馬鹿ばかしい甘さだと考えられるようになり、そこに恐るべき魂の荒廃が進行していく‥‥。」(同上)と言われているものに他なりません。

 つまり、大学紛争のひとつの帰結として、一九七二年に起きた連合赤軍事件は、庄司さんが繰り返し語っていた危険への「予感」が、「現実」として目の前に突き出された、と言ってよい出来事であったに違いありません。
 一つの想像に過ぎませんが、あるいは、『白鳥』執筆後(一九七一年二月に単行本が発行されています)、庄司さんは既に『青髭』を書き始めていたかもしれません。四部作については、できるだけ早く書いてしまいたい、という気持があったに違いありませんから。しかし、それはなかなか形にならなかった。それが何故なのかはわかりません。単純な理由があったのかもしれませんが、いずれにせよ何かが庄司さんを止めていた。
 その中で、大学紛争以来の潮流が、連合赤軍事件という形でひとつの結末を迎えた。これは庄司さんにとって、やはり大変な衝撃だったはずです。

 五

 やがて、一九七五年になってやっと『青髭』の連載が始まり、二年間続いて完結後、さらに大幅なリライトが行われ(主に、他の三作とのバランスをとるために、長くなった青髭を短くした)、一九七七年七月に刊行されます。
 僕は一九七三年に『赤』『黒』『白』が同時に文庫化されて以来の読者で、リアルタイムの読者としては、実は『青』が初めてでした。それだけに大変な期待をして待ち、刊行時にはサイン会に行って、庄司さん本人より『青髭』にサインを頂きました。場所は確か、『青髭』の舞台ともなった新宿・紀伊国屋書店だったはずです。
 そして読んだ『青髭』‥‥とても面白かった。ただ、胸が痛むような哀しさがありました。そんな読後感は、庄司さんの作品に限っては、初めてでした。

 だから、実は、『青髭』には庄司さんが何故二度目の沈黙期間に入ったか、ということの理由が、透かし絵のようにはっきりと書き込まれている、と考えることもできます。
 言わば、「喪失」が書き直されて精緻になり、庄司さんに総退却を選ばせる力を持って迫ったように、『青髭』もリライトされ、もう一回客体化される、という不思議な巡り合わせもあずかって、『赤頭巾』以来の自分の方法を細部まで点検することにも繋がり、結果、ある種の力を持って、庄司さん自身に二度目の総退却を迫った、と考えることもできるのです。
 『青髭』は宿命的に他の三作とは異なる肌合いを持つ小説となりました。

 『赤頭巾』以来、好むと好まざるとにかかわらず、庄司さんは時代の表舞台に立つことになりました。その再登場にあたって、庄司さんが採用した主な武器(!)は以下のようなものだったと思います。

・ゲリラの方法(=匿名性の自由)
・絶えざる自己否定(=こころの柔軟体操)
・力に支えられた“やさしさ”
・持続の問題(迂回的方法)
・客体化と抑制力

 これらを舞台装置として組み込んだ連作が『赤』『黒』『白』『青』と続いた薫くんものと呼ばれたシリーズでした。他者の「魂への気づかい」として『赤』から始まったこのシリーズは、「青春の終焉」(本来は「旅立ち」)を描いた『青』で幕を閉じました。あるいは、連合赤軍事件の衝撃がなかったら、違った『青』が生まれていたのではないか、という想像をしたくなります。
 しかしおそらく、それが問題なのではないでしょう。
 庄司さんがその闘いの最中に用いた武器の、その有効性と限界について、誰よりも自覚的に、真摯に考え続けたのは、おそらく庄司さん自身だったに違いありません。今に至る、作家・庄司薫の沈黙をこそ、重く受け止めたいと思います。
 そして、あの時、その「時代の児の運命」として、手持ちの武器を総動員して果敢に闘った一人の作家がいた、という事実は動かないのですから。
      (二〇〇五年十月二〇日)

(2005年11月刊dozeu.net『雑想ブック』より)

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