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2010年5月30日 - 2010年6月5日に作成された記事

2010年6月 2日 (水)

dozeu.net雑想ブックを公開

五年ほど前に、「dozeu.net雑想ブック」という本を作った。これは正確に「作った」というのが正しくて、「出版した」訳ではないのである。
つまり、原稿を書き、編集して、レイアウトし、印刷屋さんの力をお借りして、印刷製本以外の作業のほぼ全部を一人でやって本を作ったのだ。出版社はまったく関係していない。流通にも乗らない。そういうプライベートな本である。
Zassobook

ネットで公開ということは実はその後行なった。自分のサイト(土星の環)内で公開したのだが、自ずとひっそりとした公開となった。それでも時々アクセスしてくださる人がいる。庄司薫やアンソニー・パーキンスのコンテンツなどを読んでくださる人がいる。奇特な方々である。素直に嬉しい。

ふと思いつき、今回、この銀望BOOK-Cafeのコンテンツとしても、公開することにした。今までより気軽に、未知の方にも読んでいただけると嬉しい。以下に公開します。カテゴリで「dozeu.net雑想ブック」を選んでもらうと、雑想ブックのみを表示します。

内容目次)

ブックエンド) まえがき 夜が明けたら

1.時をかける少女論
2.天国にいちばん近い島論
3.東京物語評
4.ラスト・サムライ評
5.初恋の来た道評
6.ノッティングヒルの恋人評
7.トニー・パーキンスとサイコの影
    *
 栞1(ミニエッセイ)
    *
8.アート・ガーファンクル・コンサート評
9.岡村孝子コンサート評
10.自由と永遠にとどく日に
    *
 栞2(ミニエッセイ)
    *
11.The Catcher in the Rye評
12.夏の小説
13.1972年の栄養失調
    *
 栞3(ミニエッセイ)
    *
14.書くことの根拠

ブックエンド) あとがき 雑想は草原に

2010年6月 1日 (火)

ブックエンド 夜が明けたら ‥‥まえがきに代えて

 僕は今、マックのディスプレイに向かってこの文章を打ち込んでいる。
 ちょうど真夜中を過ぎたところ。
 秋から冬へと季節が移りつつある。外はきっと冷え込んでいる。雨も降っているかもしれない。
 それでも、少し外に出てみたい。おそらくは人がいない夜の住宅地の濡れた道を歩いてみたい。傘は持ちたくない。月は出ていないだろう。空気は湿っているだろう。
 それでも、ぼくはここでキーボードを叩いている。かたかたかた、カチッ‥‥。

 昨年の今ごろも、本を造っていた。
 そう。初めての自分の小説集を。
 『土星の環』と名付けた本。自分のお金で旧知の印刷屋さんと一緒に造った、三十代に書いた五つの中・短篇たちを収めた、プライベートなくせに気張った、小さな上製本。本を包むカバーにはPP加工をして補強したトレーシング・ペーパーを用い、カバーに載せた「土星の環」の題字の下には、環のついた土星の画像が背景の真っ暗な宇宙空間にぽつんと浮かんでいるのが透けて見えるようにした。
 何故、そんなことをしたのだろう?
 売れる見込みもない本を造るなんて。
 哀しい自己満足じゃないか。‥‥
 僕は、うまく応えることができない。
 そうかもしれない。
 そうかもしれない、が。‥‥
 でも、答えは出てこない。

 家は静まりかえっている。iTunesから流れていた音楽がしばらく前から聞こえない。外はやはり雨が降っている。たぶん、小さな雨粒が世界中の屋根と道に降り注いでいるのだ。何もかもが、ぐっしょりと濡れて滴を垂らしている。外には出られない。もちろん、本当は出られるし、夜の外気を吸いたいけれど。
 雨は降り続けている。僕の思いとは関係なく。音楽をかけよう。紅茶を飲みたい。濃いミルクティー。
 Queen のフレディ・マーキュリーが、Seaside Rendezvous を歌い始めた。

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 時をかける思春期のドラマ----『時をかける少女』SF序説


 こんなに素敵なカーテン・コールを伴った映画を、ぼくは知らない。
 10年後に、お互いの記憶をなくした和子(原田知世)と一夫(高柳良一)が再会するラスト・シーン。両手に山の書物を抱えて、白衣の和子が大学の廊下を遠ざかっていく。
 フェード・アウト。
 暗くなった画面に、松任谷由美が作ったテーマ曲が流れ出す。
 そして再び画面が明るくなると、そこはまたあの実験室だ。芳山和子が床に倒れている。
 終わったはずの物語が、また始まる、とでもいうような一瞬の錯覚。考えようによっては、今度は物語の中の和子ではなく、見物していた我々、観客の方が、今一度過去に戻ってしまうのだ……。
 だが、それは一瞬のこと。
 和子=知世は、むくっと起きあがり、主題歌を歌い出す(!)。

   ♪あなた 私のもとから 突然消えたりしないでね〜  

 大林演出に一杯食った我々は、その嬉々としたお遊びを、軽いめまいから醒めるようにして受け入れる。そして、館内は笑いの渦だ。その半分は、あまりの馬鹿バカしさゆえに、そしてもう半分は……これは少し説明が難しい。
 スクリーンの上では、放課後の実験室から和子の部屋に、体育館に、校庭に、教室に、あるいは弓道部の練習時間に、そしてラベンダーの咲く温室にと、次々と場所を移し、時をかけて和子が……いや、原田知世がテーマ曲を歌い継ぐ。
 我々はそこに、物語という黄金の糸で寄り合わされていたそれぞれの場面が、最後にラクラクと解き放たれるのを見る。
 時と場所から解き放たれて歌う少女は、最早芳山和子ではなく、原田知世というフレッシュな魅力に輝く新しい映画スターに他ならない。
 歌はいつしか、出演者総出演の祝祭となり、拍手に包まれ、最後の最後でチラリと冒頭のスキー場、和子と一夫の出会いのシーンが挟まれ、徐々に消えゆくテーマ曲の中で、坂をかけおりてきた原田知世の、きらめく笑顔を映して、映画は終わる……。
 馬鹿バカしさのあまり吹き出したはずの笑いが、あたたかな笑顔となり、映画館を出ようと席を立ちはじめた人々の間に広がっている。何故、このようなことが起こったのだろうか。これを解き明かすことが、この小論の一つのテーマでもあるはずだ。

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天国にいちばん近い映画   ファンタジーとしてのユートピア


 ここにひとり、とても愛らしく、心優しい少女がいる。少女を愛した大人たちが、彼女を主人公にしてお話をつくった。
 映画『天国にいちばん近い島』は、そんな風にして出来上がったに違いない。
 テーマはユートピア探し。
 同時に、愛と信頼の物語でもある。同時にという訳は、後で説明しよう。
 ただし(と付け加えなければならない)、この物語は、あくまでも心優しい大人たちが、愛する少女のために作ったファンタジーだ。ユートピアも愛と信頼も、そのファンタジーの枠組みを取り除いたときには、おそらくはもろくも消え失せてしまうだろう。
 彼ら、大人たちはそれを百も承知している。
 “さようなら、幼い日々
  ありがとう、天国にいちばん近い島”
 そんな彼らだからこそ、ラストにこんなメッセージを添えたのだ。
 それはともかく、大林宣彦監督・原田知世主演。『天国にいちばん近い島』の万里(知世)がみつけたユートピアをぼくも探しに行くことにしよう。
 

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狡さの感覚 『東京物語』評


 物語は、広島市尾道に住む老夫婦周吉(笠智衆)ととみ(東山千栄子)が、成人した子供たちを訪ねて上京するところから始まる。
 長男(山村聰)は町医者となり、長女(杉村春子)は美容院の経営に忙しい。次男は既に8年前に戦死しているが、未亡人となった紀子(原節子)は未だ再婚もしていない。
 長男の家にたどり着いた老夫婦は歓待され嬉しい。しかし、東京見物に出かけようにも、急患が入って予定は流れてしまうし、長女は生活に追われ両親の相手をするつもりがない。長女の夫も気をもむものの実際には暇を作れない。気がつくと老夫婦は一日二階の部屋でどこへも出かけず仕舞いだった。
 長女は、紀子に東京見物に老夫婦を連れだしてくれるように頼む。職場を休み、観光バスに乗って東京を案内する紀子。狭い紀子のアパートで、温かい紀子のもてなしに感謝する夫婦。しかし実の子供たちは、既に両親を持てあまし気味だ。長男と長女は次に、両親を熱海にやることを思いつく。眺めの良い旅館ではあったが、若者向きで、夜遅くまでうるさく眠れない。そろそろ尾道へ帰ろうか、老夫婦はそう言い交わし、一泊で長女の家に戻ってきてしまう。いかにも迷惑げに迎える長女。老夫婦は居たたまれず、とみは紀子のアパートに、周吉は昔の知り合いを訪ねる。したたかに酔った周吉は、子供たちが期待するようには育ってくれないことを諦めつつも語らずにいられない。一方、紀子の家に泊まったとみは、いまも次男のことを思い、子供たち以上に温かく自分たちに接してくれる紀子にすまなさを感じ、遠慮せずに再婚し幸せになってほしいと願うが、紀子は笑顔でこのままでいいと言うのだった。
 周吉ととみは翌日古里に帰るが、周吉の礼状と前後して、東京の子供たちの元に、とみ危篤の電報が届く。

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汚辱の記憶  『ラスト・サムライ』評


 最後の戦いの場面で、涙がでた。
 そう、いい映画だった。意外にも。
 トム・クルーズと言うハリウッド・スター(この作品のプロデューサーでもある)と、エドワード・ズウィックという監督が作り上げたこの物語は、近年日本人が作り上げたどんな映画よりも“古き良き”日本の精神を衒いなく描いていたのかもしれない、と思わせるほどに。

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いま失われようとするもの  初恋の来た道


 「初恋のきた道」はいい映画だった。
 単純なストーリーをじっくりと描く。対象の感情のゆれを信じて描く。やっているのはそれだけだ。余分なことはなにもない。
 実際ストーリーは驚くほど単純だ。単純なんてものではない。愕然とする。
 しかし、観ているうちに、どれも日本が失ったものばかりだと気づく。日本が近代化・高度成長するうちになくしてきたものを、素材としてはそれだけを集めて作った映画だ、と言いたいくらいに。
 

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リアルさの感度 『ノッティングヒルの恋人』評

 ジュリア・ロバーツとヒュー・グラントははまり役だったと思う。ジュリア(アナ)の輝くような笑顔のチャームは健在だったし、ヒュー(ウィリアム)の平凡な男ぶりも板に付いていた。あまりに平凡すぎて、ハンサムではあっても、この男のどこにスターであるジュリアが惹かれるのか、今ひとつ説得性がないような気がやはりする。しかし、その分我々凡人がウィリアムに感情移入することを可能にし、「もし、本当に目の前に大スターが現れて、自分の恋人になってくれたら」というこの映画のキイとなるファンタジーの非現実性をかなり救っている。
 この映画には、お手本があったことを伺わせるシーンがいくつかある。初めにスターとしてのアナの活躍をフラッシュで見せる導入部。続いて主人公の男性の日常を描き、さらにその全く違う二つの世界がどうして出会ったかを描写 していく……。そう、この映画のお手本は、明らかに「ローマの休日」に違いない。ジュリアの役どころはオードリーが演じたアン王女と二重写 しに見える(名前からしてアナだしね)。新聞記者のジョーを演じたグレゴリー・ペックに相当するヒュー・グラントは、旅行専門書店の店主ではあるが、記者会見場に紛れ込んで滑稽なインタビューを試みるのだ。極め付きはラストシーンの記者会見だろう。「ローマの休日」ではそれがそのままアンとジョー別 れの場面となり、真に忘れがたい余韻を残した。

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カテゴリー

  • dozeu.net『雑想ブック』
    平成17年に自主製作した僕のエッセイ集です。
  • まちづくり
    地域づくりコーディネーターとして働いています。市民活動団体、NPO等で地域活動にもかかわっています。
  • 感想・思索
    読書や、観劇、コンサート等の感想や、日々触れるさまざまな事柄について考えたこと、感じたことなど。

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