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2010年1月31日 - 2010年2月6日に作成された記事

2010年1月31日 (日)

D.J.サリンジャー氏、逝去

 サリンジャーが亡くなった、とのこと。享年91歳。老衰。
 こういう報を聞くと、なかなか辛い。先日は日高敏隆さんが亡くなったし、河合隼雄さんも伊丹十三さん既に亡いし、トニー・パーキンスも、ジョン・フィリップスも、ずいぶん前に亡くなってしまった。
 ぼくが青春時代に、何らかの形で、深く影響を受けた人たち。
 それが、ひとりまたひとりと、この世界から退場して行く。
 ぼくは、彼ら(と、そのほか多くの人たち)にある種、恩義を感じている。まぁ、一方的にではあるけれど。
 だから、彼らの冥福を祈らずにいられない。

 サリンジャーについて、ぼくが詳しく紹介する必要はないように思う。村上春樹さんが野崎訳の『ライ麦畑でつかまえて』を、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』として訳し直した、その作者がサリンジャーさんですね。ウソみたいな話しだけれど、ライ麦畑や、『ナイン・ストーリーズ』(こちらも柴田元幸さんが訳し直されました)などの作品を書いたあと、作品の発表を止め、半世紀に渡って隠遁生活を送ってそのまま亡くなった。生きているうちから既に伝説の作家だった。

 ぼくは、新潮文庫の野崎孝訳『ナイン・ストーリーズ』で、サリンジャーにイカレたくちです。
 一つ目の短編「バナナ・フィッシュにうってつけの日」の語り口の鮮やかさに、ガツン、とやられ、「コネティカットの〜」のラモーナの描写に負け、「エズメに捧ぐ」の可憐なエズメにまいり、「テディ」には訳がわからず頭をひねった。それから、『フラニーとゾーイー』ほかのグラース家ものの作品等を読んでいき、もちろん『ライ麦畑』も再読した……(実は、ハイティーンの頃に一度読んでピンと来ず、その後も20代で再トライしても読み切れず、村上訳で初めて、そうか、そうだったかのかと感心した……のだ)。

 ぼくの大好きな庄司薫さんとの類似性が話題になったこともあったが、ぼくにとっては、彼らは飽くまで別個の作家だ。確かに、若き日に作品を発表後、長く沈黙していることなど、ある程度の類似性はあるが。よく言われる『ライ麦畑』と『赤頭巾ちゃん』の類似性なども、とても表面的なことで、それを言い立てることにはほとんど意味はないと思っている。何より、作品自体からぼくらに訴えかけてくるものがまったく違うのだから。

 追悼になるかどうか分からないけれど、以前に村上訳「キャッチャー」について書いた文章を、以下に採録して、サリンジャー氏のご冥福を祈りたい。

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  イノセンスへの信憑 
        『キャチャー・イン・ザ・ライ』評  

 村上春樹訳による『ライ麦畑でつかまえて』である。ご多分に漏れず僕も十代の終わり頃古本で買って野崎訳を読んだクチだ。それ以来通しで読むのは初めてだろう。エピソードの多くは忘れており、初めて読むような感じで読むことができた。へぇ、ライ麦ってこんな話だったっけ、という具合に。
 そして、途中から僕は感心しはじめた。いや、すごいじゃないか、まいったな、と。実は、初読の印象は文体的なものが一番で、後はフィービーが出てくるラストシーンの印象くらいしかない。取り留めもない話だし、主人公のホールデンにしてからが変に社会に対して反抗的なポーズをしているのがむしろ鼻につく、といった感じであったのだ。ただ、確かにあの文体は魅力的だった。実際麻薬的なところがあったな。ついつい真似しちゃいそうなくらいだった。
 ところで、今回読み直してみて、僕は実際に青春時代であった初読のときよりホールデンに感情移入できたように思えたわけだけれど、何故なんだろう。
 しかし、このホールデンのヨタヨタぶりはただ者じゃないって感じだ。こんなに情けない主人公はなかなか出てこない気がする。ただ情けないというんじゃないんだな。ホールデンは自分の情けなさにとことん付き合っているんだ。まさに地面にずぶずぶと沈み込むようにそれでも前進しようとする。方向も判らないのにさ。やることなすことすべてうまくいかないくせにだよ。何故かっていうと、何はなくともホールデンには、自分の中に埋まっているイノセンスに対する信憑だけはあるんだな。まさにその信憑こそがホールデンの躓きの石ではあるんだが(彼は本当に良くこの話の中で躓いてばかりいるんだ)。
 その信憑に照らす限りにおいて、ホールデンには見るもの皆うんざりするものばかりになってしまう。実際彼自身そんな自分を持て余しているに違いない。全てにうんざりすれば、つかまる支えすらなくして沈んで行くしかない。ホールデンにとっては兄のDB、死んでしまった弟のアリー、そして妹のフィービーくらいしか本当に心許せる人間はいない。問題なのは、家族以外で一番ホールデンが好意を持っていたと思われるジェーン・ギャラガーとは、物語のリアルタイムの時間には結局会えないし(会うチャンスがあってもホールデン自身がそう言う気分じゃないと言い訳して会わない)、電話で話すことも結局できないままだ。好意を持つことができる大人としてはわずかにシスターとアントリーニ先生くらいか登場しないが、そのシスターには最後に煙草の煙を吹きかけてしまうし、アントリーニ先生のところからは、ゲイ的なことを仕掛けられたと感じると真偽のほども確かめずに逃げ出してしまう。
 イノセンスに対する信憑を持ち続けることが、おそらくは(戦火をくぐり抜けた)サリンジャーのほとんど唯一の拠り所だったのだ。その同じ拠り所がまさしくサリンジャー自身を他のすべてから分け隔てずぶずぶと沈ませかねないものでもあったのではないかと思う。今、サリンジャーと書いたけれど、これはホールデンと書いても同じことなんだよね。その後のサリンジャーをみると、この背反性は結局のところうまく解消されなかった、と言うべきなんだろうけれど、ここでのサリンジャーは、自分の見えない将来に向かってホールデンとともに懸命に手探りしている。物語の最後になっても、単に一時期の休みをサナトリウムのようなところで得ているだけで、何の結論もない。九月からは学校に戻る、つまり振り出しに戻っただけなんだが、その切羽詰まった気持ちだけはしっかりと手渡されるわけだよね、「君」にも。
    (『review japan』二〇〇三年五月三日)

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